著作権法がホット

ミクシィと同じ記事で失礼。
だが、個人的にこれは大勢に読んでいただきたいと思いました。



まずはこの記事をご覧下さい。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061021-00000011-mai-soci


以下の文章は、上記事を既読のものとして書き進めます。



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まず、荒川氏の主張する「問題」ですが、
これについては全く問題が無いのは明かです。


上記事の読者の皆様には、最近の銀河鉄道999盗作疑惑で
著作権問題について敏感に成っている方もいると思います。


(銀河鉄道999盗作騒動
  http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?b=115&t=d)



しかし、この騒動で最も問題になっているのは
槙原氏が999のコミックスに有る、
歌詞に酷似した一文を「知らない」、
その後に「どこかで聞いたものが記憶に残っていたかも知れない」
と発言したことから、
「実は知っていて盗作したんじゃないか」ということが
問題になっているのであって、


「999の一文を槙原氏が知っていたか否か」


が問題になっているのに過ぎません。



しかし、今回の荒川氏主張の件については、


宮崎吾朗氏がインタビューでその詩の存在を明らかにしている
・公式サイトでも当詩を参考にしたことを認めている


上記2点から、999盗作騒動と動揺の議論は成立しません。


また、文面を見る限り、荒川氏が問題にしているのは


「構成が酷似しているのに『作詞/宮崎吾朗』としたことには
問題がないのか」


と言うことですが、これに関しては
俺は「あえて」問題にしてはいけない部分ではないか、と思うのです。


確かに、構成が酷似――記事を見る限り、同じ意味の文章が
同じ順序で並んでいる――ことに関しては、
「盗作」の疑惑を免れない部分と思います。


しかし、宮崎氏は「構成を含めて」参考にした、と言う抗弁も可能です。


詭弁に思われるかも知れませんが、
「詩」という形態上これは重要なことなのではないでしょうか。


「詩」という文学は、文章芸術の粋である、と思います。
その美しさは語彙のみならず、
倒置や逆接、反語といった文章構成そのものが大きな「美」と成るのではないでしょうか。


ということは、例え「再構成」する必要がある部分であろうとも、
詩の美しさを保つために「あえて」語彙や構成を変えない、ということは必要だと思います。


ちなみに、原作の詩の作者・萩原朔太郎氏は既に50年以上前に無くなっております。


従って、保護期間を50年と定めている日本の著作権法に寄れば、
朔太郎氏の詩は既に保護期間を過ぎており、著作権を理由にした議論は成立しません。


誤解無きよう述べておきますが、荒川氏はその主張で著作権については述べていません。



記事の最後に、日本文芸家協会副理事長、三田誠広氏の主張が述べられていますが、
上氏が述べている「感謝の気持ちを表するべき」という主張はもっともなものです。
「先行する芸術への尊敬」という言葉を使われては居ますが、
萩原氏の作品が無ければ「テルーの唄」が完成しなかったことは
宮崎氏も認めるところであり、
ならば一文を添えるのは確かにモラルの問題と言えるでしょう。




記事のトップに「告発」という言葉が添えられていますが、
これは記事としてのインパクト勝負に出た記者の言葉だと思います。


非常に穿った見方をすれば、という前提付きですが、
俺はここに「告発」という言葉を持ってきたのは、
999盗作騒動で著作権法が盛り上がってる今、
ここで更に「盗作?」という話の種を投下することで、
記事を売ろうとする策略ではないか、とも思います。


荒川氏の文章は「告発」というより「問題提起」であり、
言葉一つで文章の色ががらりと変わってしまうことは意識していただきたいと思います。


最後に、著作権法についてですが、
この法律は「著作物の保護」を目的にするものであって、
著作権が有るんだコノヤロウ」と言うような攻撃的な性質はありません。


つまり、後発の著作物が先発の著作物の盗作である、と言うことが明らかに成ったとき、
先発の著作物の芸術性やその他の権利を守る為に発動する法律であって、
「盗作の疑惑がある」段階で、この法律を理由に発行差し止め及び謝罪を求める、
などということはできません。


駄文を読んでいただき有難う御座いました。